熊本県 印刷業 創業51年
印刷の現場には、かつてのようなインクの匂いも、機械の振動も、もうほとんど残っていません。印刷所で最も大きな音を出しているのは、もはや印刷機ではなく、キーボードのタイピング音と電話の呼び出し音です。自社のオフセット機は数年前から停止したままで、今では半ば倉庫のようになった作業室の片隅に、静かに佇んでいます。
現在の仕事は、チラシやビラなどの小ロット印刷の発注代行と、軽微なデザイン業務が中心です。クライアントから原稿やラフが届けば、それを整えてオンラインの印刷サービスに入稿し、仕上がった製品を納品する。かつて工場内で黙々と刷っていた日々に比べると、手を動かす時間より、パソコンの画面と睨めっこする時間の方が長くなりました。
自前の印刷機での生産は、もはや採算が合いません。用紙代も、インキも、人件費も、全てが高くつきます。ネット印刷の価格と納期にはどうしても勝てず、比較されるたびに見積もりは跳ね返され、徐々に「作る側」から「つなぐ側」へと立ち位置が変わっていきました。とはいえ、それでも必要とされる場面はあります。どうしても短納期で、柔軟な対応が求められる場面。そこにわずかな希望を見いだし、毎回工夫を重ねています。
数年前、冊子印刷の案件が舞い込んだことがありました。ページ数も多く、部数もそれなり、単価も悪くない仕事でした。ただ、綴じ方が特殊で、既存の機材では対応ができず、外注に回すと利益がなくなる。惜しくも断念しましたが、その時に「多少高くても、入稿の締めをギリギリまで遅らせることで、仕事になる」という気づきが得られました。価格の競争ではなく、納期や対応力という別の軸で勝負することができるのではないか。そうした小さな学びの積み重ねが、今の業務の支えになっています。
ただし、次の一手は簡単ではありません。設備投資をする余裕はなく、少しでも無理をすればキャッシュフローがすぐに崩れます。そのため、ファクタリングを利用して資金繰りを安定させてきました。月末には売掛金の一部を現金化し、デザイナーへの外注費や納品時の配送費に充てています。利率は決して安くありませんが、それでも資金が滞って仕事を断るよりはずっと良いと感じています。お金が流れている限り、事業は続けられます。
今は「できること」から始めています。既存のクライアントに対しては、今まで以上に丁寧なヒアリングを行い、紙の質感や仕上がりの細部についても細やかに提案します。メールだけで済ませず、必要に応じて直接訪問し、説明の時間を惜しみません。ネットの利便性に対抗するためには、人の手と声が持つ安心感を武器にするしかありません。また、複数のオンライン印刷サービスを比較し、納期と価格と品質のバランスを常に把握しています。案件ごとに適したサービスを選び、無駄のない手配を行うことが重要です。地味な作業ですが、それが信頼とリピートにつながります。たとえば「どこに頼んだら良いかわからない」という小規模事業者の相談に乗ることで、ただの代行業務ではない「伴走型」の支援を実感してもらえます。
いずれは、自社ブランドとしての印刷企画を立ち上げたいと考えています。観光地のパンフレット、町内の記念誌、教育機関向けの冊子など、地域密着型のニッチな市場でなら、丁寧な仕事が評価される余地があるはずです。ただし、それにはまだ準備が必要です。資金も、人手も、そして何より、安心して受けられる「流れ」が必要になります。
ファクタリングに頼らなくても運転資金が回るようになるには、もう少し時間がかかりそうです。ただ、現状を否定せず、できることに集中し、小さな信用を積み重ねていくこと。今はその積み重ねが、将来に向けた最も確実な投資だと信じています。
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